ニューズレター目次へ

第8号 3/10 2003
近着最新情報

LTD型ドライアイの鑑別診断に有用な新しい検査法開発(AO 2003; 121:173-180)
 ドライアイは、その成因からATD (aqueous tear deficiency)とlipid tear deficiency (LTD)とに大別される. 前者はいろいろな検査によって診断できるが、LTD を特定する鑑別検査法は乏しい.瞬目後、 涙液膜脂質層はどんな時間経過で拡散するか、安定状態でのリピド層の厚さはどれほどであるか、 LTD眼では特性にどんな異常があるだろうか.実際の臨床で答えるのは困難であった.この報文では、 正常眼11人・ドライアイ眼8人を用いて、DR-1 tear interference camera (Kowa) で撮影した角膜画像を分析すれば、 実用的な検査ができるのではないかと報告している.瞬目後のリピド層の拡散は正常とLTDでは大いに違う. すなわち、正常では水平方向に拡散するパターンを示す.ところが、LTDでは垂直方向に拡散する. 瞬目後にリピド層の拡散が安定するまでの時間(平均)は、正常眼0.36秒・LTD 3.54秒でリピド減少型ドライアイでは 実に10倍もゆっくりだ.リピド薄膜層の厚さ(平均)は、正常眼74.5 nm・LTD眼43.8 nmであって、 LTDでは正常の2分の1ほどに薄くなっている.(コメント:涙液層のきめ細かな検査法のニーズはますます増えるだろう.マイボーム腺機能検査としてxeroscopyとならんで実用化が期待される).
結膜in situ腫瘍と扁平上皮癌の超音波所見(AO 2003; 121:168-172)
 50 MHzだと腫瘍の形・境界・内部反射が高解像画像で記録でき、20 MHzだと腫瘍の概観・隣接組織との関係がえられる. 扁平上皮癌では表面は高反射、実質は低反射.前房隅角や虹彩への浸潤、眼窩への伸展などが超音波で確認できる. (コメント:結膜の腫瘍はごく稀であるが、診断や鑑別診断が大切である.肉眼所見で少しでも疑われる時は、 地域の腫瘍専門家にそのまま紹介するのが賢明であろう.)
緑内障と硝子体アミノ酸(AO 2003; 121:183-188)
 動物の硝子体にグルタミン酸を注射すると網膜神経線維層の損傷が起こる.イヌの自然緑内障眼やサルの実験緑内障眼やヒトの緑内障眼で硝子体中のグルタミン酸が増えているといった知見から、 緑内障の網膜神経節細胞欠損にはグルタミン酸の毒性効果が想定されている. この報文は従前よりも慎重な研究計画をたてて、こうした課題(仮説)を検証した結果を発表している. 統計検定に耐える数の緑内障眼と対照眼とについて硝子体中のアミノ酸種を調べたところ、 緑内障で増量したアミノ酸はグルタミン酸を含めて一つもなかった.
強度近視に合併する乳頭周囲剥離(AO 2003; 121:197-204)
 強度近視は網脈絡膜萎縮や黄斑下血管新生をはじめとしてさまざまな合併症をきたすが、 従来記載のないsignだとして表記の合併症を報告している. 下方conusに接して、黄色-オレンジ色、1-2乳頭径までの大きさの限局病巣のことである. OCT所見から神経網膜と色素上皮とが剥離している.乳頭小窩(optic pit)に伴う網膜剥離と同じような機序も考えられる. こうした病巣は、無自覚無症状で年余の経過観察で変化はなく、それ自体は治療の対象にならない. だが、眼底腫瘍、脈絡膜血管新生などと鑑別して無用の検査などを行なわないのが肝要であろう.
Observation of choroidal circulation using index of erythrocyte velocity (AO 2003; 121:225-231)
In vivo imaging of human retinal flow dynamics by color Doppler optical coherence tomography(AO 2003; 121:235-239)
角膜の厚さと眼圧:西インド諸島 Barbados 島住民の場合(AO 2003; 121:240-244)
1142人(主として黒人、平均年齢64.3歳、女性58%)の健診.黒人の角膜中心部の厚さは薄く、年齢が若いほど、糖尿病があるほど.屈折異常があるほど角膜は厚かった. 眼圧と角膜の厚さとの間に相関はなかった.
高眼圧症の眼の角膜の厚さと視機能異常所見(AJO 2003; 135: 131-137)
角膜が厚くなると見かけの眼圧計測値は真の眼圧値よりも高めになる.したがって高眼圧症と診断される患者のかなりのものは視機能障害を起こさないと思われる. 高眼圧症と診断され精密視野(青色視野)で異常が検出された眼は、視野異常を示さない眼よりも角膜厚値が小さかった.こうした成績から、高眼圧症の診断のもとで緑内障性視野異常が将来発生するかどうかを検討する場合には、 角膜の厚さをきちん測定して判断材料にすることが大切である.
白内障乳化吸引術の両眼同日手術(BJO 03/March)
220例の事後調査の結果.平均視力は術前0.27(worse eye)、0.39 (better eye)、術後0.71で78%が0.5以上を得た. 術前の留意事項は白内障の型・術後不同視の回避・生活環境・合併眼疾患であった.術後に問題があったのは、 後発白内障(10例)、虹彩炎6例、角膜浮腫3例、前房内皮質残存2例、片眼眼内炎2例であった. 同期間での両眼同1日手術の頻度は10.5%だった.
網膜色素変性眼への視細胞移植、短期経過(Ophthalmology 2003; 110: 383-391)
ヒト剖見眼から得た視細胞を8例の患者に移植、免疫抑制剤を使うことなく1年の経過を見た.視力・コントラスト感度・視野に改善はなく、 暗順応閾値や網膜電図も不変だった.拒絶反応はなかった




眼科学の歴史 小箱
 A. Graefe and A.von. Graefe

『Graefe-Saemische Handbuch der Gesamten Augenheilkunde』はvon GraefeとSaemischとの編著によるものだろうか、「Graefe Medal」はvon Graefeにちなんだ学会賞だろうか.Graefeには二人いる.よく知られるAlbrecht von Graefe(1828-1870)とそうではないAlfred Graefe(1830-1899)とである.  Albrechtは19歳でベルリン大学医学部を卒業.42歳の若さで亡くなる1870年まで、father of modern ophthalmology、founder of scientific ophthalmologyとして19 世紀眼科学の躍進に貢献した.研究業績は枚挙に遑がないが、Graefe`s sign、視野計(campimeter)、斜視の成因、緑内障の病態があり、手術では緑内障の虹彩切除や白内障手術とオリジナルの仕事を残した(筆者の白内障手術修行時代のGraefe knifeによるラッペン嚢外摘出も術後1週の絶対安静も、その100年前のGraefeの実践と原理的に同じだった!).

 Graefeは1850年に22歳の時、ベルリン中心部の質素なアパートの2階に2部屋を借りて開業、「Dr. Albrecht von Graefe Will Treat Free of Charge the Eye Diseases of the Poor. 」という広告を市内の新聞に載せたのが初仕事であった.著名な父親の威光を嫌い、貧しい人々にサービスしたいという心意気がにじみでている(当時の欧米には医業の広告規制はなかった!).開業まもないクリニックの様子は、伝記作家Michaelisによって伝えられている.「とある小さなアパートの診察室に机が二つ並んでいた.机の上には硝酸銀の薬瓶が二つ、酢酸鉛の瓶が一つ、阿片チンキの瓶が一つ置かれていた.椅子が二つ、患者の椅子は患者の眼に太陽の光がよくあたるように置かれていた.古びた立ち机があって処方箋が積み重ねられ、リューエル製の眼科手術器具を収めた棚がある.特別な検査器具らしいものはなにもみあたらない.狭い廊下をはさんで小さな待合室があった.これが Graefe 診療所のすべてだ.」やがてクリニックは大いに隆盛となり、19世紀の欧州で最も権威ある眼科専門病院に発展した.貧乏人も金持ちも貴族も医師も研修医も学生も眼科のメッカに集まった.後進国アメリカからも大勢の眼科医がやってきた.von Graefeは日常の診療に力をいれると同時に、教育や研究に八面六臂のはたらきをしたのだった.
 一方、Alfred GraefeはAlbrechtの病院で1855年から2年間研修したあとHalle大学で30年近く眼科教授を勤めた.Alfredも多方面で業績をあげたが現在にも生きる特筆すべき研究は、Listerの消毒法の概念を眼科にはじめて取り入れて内眼手術の感染予防法を確立したことである.また、眼底cysticercusの第一発見者である.
 Albrecht、Alfredの両Graefeは従兄弟同士で、AlfredはAlbrechtの父で形成外科の開祖Carl Ferdinand Graefeの甥になる.文献などでの表記はしばしば略記されるから、両者を識別するのはvon があるかどうかだけである.
Albrecht von Graefe → A von Graefe→ A v Graefe Alfred Graefe → A Graefe 
 Alfredは、同時代に生きた従兄弟の知名度があまりに高いがゆえに、割りをくったことが少なくないようだ.時代が下ってもAlfred Graefe は従兄弟と間違えられたり無視されることが少なくなかったそうである.文献記載の誤りは枚挙に遑がなく、たとえば20世紀になっても「von Graefe in 1890 …. noted …..」といった論文がしばしばあったし、現在でも同じような誤解は少なくないであろう.ちなみに冒頭のGraefe-Saemischの『眼科学全書』全7巻はAlbrechtの死から数年して刊行がはじまっている.出版社の手違いかどうか不明だが、編者名は単にGraefeであり、おまけに第1巻の見開きにはAlbrechtの肖像が飾られている.人々が大Graefeの編集と思い込むのも無理はない(筆者もそうだった).また、ドイツ眼科学会はAlfred Graefeの功績をたたえてGraefe Medalを制定し10年ごとに優れた研究を表彰してきた.第1回のHerman von HelmholtzにはじまってLeber, Axenfeld, Hering, von Hess, Gullstrand, Gonin, Goldmann, Francois, Myer-Schwickerath, Fankhauserの各氏が受賞している.彼らが手にしたのはAlbrecht von Graefe MedalではなくてAlfred Graefe Medalだったのである.

 
 


Dr. Julius HombergerとAmerican Journal of Ophthalmology

 AJOという愛称のAmerican Journal of Ophthalmologyは1918年創刊のSeries 3で、カバーページにはMONTHLY SINCE 1884と明記されている.図示したように、Series 1は1862年創刊、Series 2は1884年創刊ということになるが、問題なのは1862年のAJOである.この雑誌は単に名称が同じだというだけで、現行のAJOとはかかわりはないと関係者はみなしているようである.
 1862年のAJOを編集発行したのはJulius Hombergerであるが、その経歴の大部分は謎に包まれた不思議な人物である.ベルリンのAlbrecht von Graefe病院やパリ大学で研修してから1961年渡米、ニューヨーク市12丁目西24番地、ついで23丁目西39番地で開業、New York Eastern Dispensary の登録医になっている.von Graefeを見習って新聞や書籍に広告をだし名刺やちらしを配る一方、貧しい人を無料で診療することを目指したのだった(当時の欧米では医業広告規制なし).「医療サービスは一般社会でのサービスとちがうというのが医学界の見解だが、それは幻想にすぎない....一般大衆は医療も商業活動であると考えているのに....」と医療界に今でいう市場原理の導入を望んでいたのだった
< 医政にも第一級の資質をもっていたHombergerは、その十数年前に創設されていたアメリカ医師会(AMA)で専門医制度委員長の地位を得て、専門医(眼科医)を重んじること、医師間に競争原理をとりいれることなどを主張したのでAMAの反発を招いて1866年には除名処分になった.ニューオーリンズに移って診療したが、AJOはわずか2年で廃刊せざるをえなかった.その後の消息は不明であるが、1872年に33歳の若さで死亡したという話がある.(大庭 紀雄)br>

 


<編集後記>

昨春『眼科学の歴史、現代眼科学を築いた人々』を本屋(文光堂)から頼まれて企画しました.歴史に興味はありましたが、これといって勉強したわけではありませんので全国のベテランの先生方に分担してもらいました.安藤先生にも「網膜剥離の歴史」や「Joules Gonin、Myer-Schwickerath] を書いていただきました.ただいま全体の編集に小骨を折っております.4月はじめに日の目をみるでしょう.怒濤のように押し寄せる新しい流れに対応するのに忙しくて過去をじっくり顧みる余裕がない昨今ですが、発見や発明や革新や変革は一朝一夕に成ったものではありません.先人たちの並々ならぬ努力の跡をかみしめながら日々の診療に取り組みたいものです.というわけで、異色の本の予告宣伝をいたしました.

大庭 紀雄

Copyright c 2001 EYECARE NAGOYA All Rights Reserved