Graefeは1850年に22歳の時、ベルリン中心部の質素なアパートの2階に2部屋を借りて開業、「Dr. Albrecht von Graefe Will Treat Free of Charge the Eye Diseases of the Poor. 」という広告を市内の新聞に載せたのが初仕事であった.著名な父親の威光を嫌い、貧しい人々にサービスしたいという心意気がにじみでている(当時の欧米には医業の広告規制はなかった!).開業まもないクリニックの様子は、伝記作家Michaelisによって伝えられている.「とある小さなアパートの診察室に机が二つ並んでいた.机の上には硝酸銀の薬瓶が二つ、酢酸鉛の瓶が一つ、阿片チンキの瓶が一つ置かれていた.椅子が二つ、患者の椅子は患者の眼に太陽の光がよくあたるように置かれていた.古びた立ち机があって処方箋が積み重ねられ、リューエル製の眼科手術器具を収めた棚がある.特別な検査器具らしいものはなにもみあたらない.狭い廊下をはさんで小さな待合室があった.これが Graefe 診療所のすべてだ.」やがてクリニックは大いに隆盛となり、19世紀の欧州で最も権威ある眼科専門病院に発展した.貧乏人も金持ちも貴族も医師も研修医も学生も眼科のメッカに集まった.後進国アメリカからも大勢の眼科医がやってきた.von Graefeは日常の診療に力をいれると同時に、教育や研究に八面六臂のはたらきをしたのだった.
一方、Alfred GraefeはAlbrechtの病院で1855年から2年間研修したあとHalle大学で30年近く眼科教授を勤めた.Alfredも多方面で業績をあげたが現在にも生きる特筆すべき研究は、Listerの消毒法の概念を眼科にはじめて取り入れて内眼手術の感染予防法を確立したことである.また、眼底cysticercusの第一発見者である.
Albrecht、Alfredの両Graefeは従兄弟同士で、AlfredはAlbrechtの父で形成外科の開祖Carl Ferdinand Graefeの甥になる.文献などでの表記はしばしば略記されるから、両者を識別するのはvon があるかどうかだけである.
Albrecht von Graefe → A von Graefe→ A v Graefe
Alfred Graefe → A Graefe
Alfredは、同時代に生きた従兄弟の知名度があまりに高いがゆえに、割りをくったことが少なくないようだ.時代が下ってもAlfred Graefe は従兄弟と間違えられたり無視されることが少なくなかったそうである.文献記載の誤りは枚挙に遑がなく、たとえば20世紀になっても「von Graefe in 1890 …. noted …..」といった論文がしばしばあったし、現在でも同じような誤解は少なくないであろう.ちなみに冒頭のGraefe-Saemischの『眼科学全書』全7巻はAlbrechtの死から数年して刊行がはじまっている.出版社の手違いかどうか不明だが、編者名は単にGraefeであり、おまけに第1巻の見開きにはAlbrechtの肖像が飾られている.人々が大Graefeの編集と思い込むのも無理はない(筆者もそうだった).また、ドイツ眼科学会はAlfred Graefeの功績をたたえてGraefe Medalを制定し10年ごとに優れた研究を表彰してきた.第1回のHerman von HelmholtzにはじまってLeber, Axenfeld, Hering, von Hess, Gullstrand, Gonin, Goldmann, Francois, Myer-Schwickerath, Fankhauserの各氏が受賞している.彼らが手にしたのはAlbrecht von Graefe MedalではなくてAlfred Graefe Medalだったのである.
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